好きなことすら苦しい「損得勘定(感情)」から脱したい…「昔の自分」へ意図的に戻ってみる。

…そう言えば、このブログは私のものだった。
誰のものでもなく、私が牛耳っている自分の空間。そんな当たり前のことを忘れそうになっていた。

Adsense申請に落ちて凹む、でもそれは損得勘定(感情)のせい

ここ数日、お問い合わせページとプロフィールをしれっと追加する作業をしていた。Google Adsenseに申請するために必須ページだと書かれていたから。

実は以前も申請していて審査には落ちている。今回こそは、準備万端で申請してみたのだけれど、びっくりするほど早く数時間の間に返信があって「承認されませんでした」と。

またかー…これだったら昨年ブログを始めた頃、申請だけでも出しておけばよかった?と反射的に考えてしまう。

でもあの頃はまだ「公務員」であったし、そういった類の行為は一切やってはいけないわけであって、当時の自分の行動は間違っていないから後悔する意味はない。

…よく考えたら、最近はかなり”損得勘定で生きてしまっていた”のかもしれない。

ブログについても、プロブロガー・作家・カウンセラーである立花岳志さん(通称:たちさん)の主催する「立花・Be・ブログ・ブラングディング塾」を受講して「損得を考えていては続かない、自分の好きなことを書こう」と散々言われていた。
自分でもその通りだと思っていたはずなのに、仕事を辞めてデザインの勉強とお仕事をいただくようになってから、どうしても「好き」の前に「損得勘定」がきてしまっていた。そんなことにようやく気づいた。

「損得勘定」というのは、ある種「べきねば」なのかもしれない。

「こうしないと稼げない」「わかりやすく、相手に有益な情報を届けなければ」「ぐるぐる脳みそ(=私が考えていることをブログに書き散らす、脳内垂れ流し的な記事)は書いてもお金にならない」などなど。
「べきねば」をすれば何か(自分にとって)都合の良い状況になる可能性がある、ということに縛られていた。

気づいたら色々なことを考えていて、勝手に苦しくなっていたんだと思う。思考が一度回りだすと、そうなっていることに気づくのにまだ結構な時間がかかってしまう。

本当は「全然頑張れない人」なのかもしれないとうすうす解ってきた

生産性の高い日の後はその反動が来る

友人のぞのくんに勧められて始めた「Taskchute Cloud」で、1日の行動のログを取るようになった。彼はこのツールを使いこなしている。

確かにこれがあると、自分の行動がどうであったか、今は有益な時間の使い方をしているのか、ということを振り返ることが簡単にできる。

8月は途中から使わなくなってしまったので、9月に入ってからは改めてこのツールを少しでも使いこなそうとして頑張っていた。

意識して使うようにして、デザインの勉強と仕事をやっている時間は25分間集中して5分休憩するというサイクルを繰り返すという「ポモドーロテクニック」も導入してみて、自分なりにうまく1日を使えるようになった。
生産性も上がって1日の密度が高くなってきている、いい感じだなという気がしていた。

が、しかし。ここで逆接。

ここ数日、全然頑張れない。もう、全然。
漠然とした不安感と、私は果たして前に進んでいるんだろうかという閉塞感が襲う。パートナーにも「なんか疲れた顔してるね」と言われる始末。

「私は本当にデザインのことがやりたかったのか?」という疑問まで浮かんでくる。
X100F(2017年5月に購入したカメラ)で写真を撮ることは気軽にやれるのに、デザインのことになった途端になぜここまで身体が硬くなって意識してしまうのだろう、と謎の比較も始まる。

正直なところ、写真を撮ることは楽しいのに、デザインをすることは気が重いと感じてしまっている自分がいた。

私は「ちゃんとしなきゃ」病にやられている

もやもやしている自分のまま、何気なくFacebookの投稿を見ていると、たちさんの投稿がグサグサと胸に刺さった。

加えて、パートナーからも追い打ちをかけるようにこんな言葉を投げかけられた。

「『ちゃんとしなきゃ』と思っている人は、言い方は良くないけれど『自惚れてる』。だって『ちゃんとできる』と思ってるから。『できたらすごい』くらいに思っていた方が楽。」

彼は、頑張らないときはとことん頑張らない(と思う)。
私は、それが「だらだらしている」ように見えてしまっていた。もっと言ってしまえば「時間の無駄遣い」とも思っていた。(…これはもはや批判だと思う。)

ただ、頑張るときは人が変わったかのようにきびきびしている。
少なくとも私にはそう見えるので、個人的にそのギャップに拍子抜けしてしまう。彼のそのメリハリはどこから来るんだろうか。

意図的に「昔の自分」に戻ってみるという行為が「ただ好きなことをする感覚」を思い出させる

もうどうにもならないので、今日は久々に10年前の自分がよく聞いていた「I’ve sound」の楽曲をガンガン聴いて、思っていることをノートにつらつらと書いて、Twitterを意味もなく眺めて、というようなことをしてみた。

馴染みのある、いままでの、私。
生産性のかけらもない(と思っている)私。

ここ2年くらいの自分の変化はいままでの人生の中でもかなり劇的であって、なんとなくそれに追いつけてないのかもしれない。だから、意図的に「昔の自分に戻って」みた。

そうすると、昔の自分に「戻る」というよりは、昔の自分が感じていた「感覚」を今の自分の中に「取り戻す」ことができている気がした。

こんな風に音楽を延々と聴き、歌いたい時は歌って、時には絶望的で中二病みたいなことを考えたりして…内容はどうであれ、これが「好きなこと」を「”ただ”やっている」感覚なのかなと。
こんな自分も、確かに自分の中にある一要素であって、こんな自分があってもいいんだなと、なんとなく腑に落ちた感覚があった。

いままでの自分を切り離して考えていたのかもしれない。
どんな自分であっても、一瞬一瞬の自分が積み重なって今がある。いままでの自分もちゃんと自分。必要なプロセスを踏み外すことなく歩んできたという事実を軽視していたのかもしれない。

「ちゃんとしない」の実践の仕方がわからないと思っていたけれど、見習うモデルはすぐ近くにいたわけね、と椅子から立ち上がったときにふと気づいた。
これもまた心理学用語でいうところの「投影」なんだと思って、思わず笑ってしまった。だから、散々彼の姿が気になっていたのか……と。

私は、本当は「全然頑張れない人」なのかもしれない。
でも、それを散々否定して無理やりでも「頑張っている人」「ちゃんとしている人」であり続けようとしていただけなのかもしれない。

「自分の本当の姿を周りに悟られたら、自分という存在が危うくなるのではないか?」という恐れの存在。

元を辿れば、そんな恐れも親との関係から創り出されてしまったものなんだろう。衣食住という人間としての生活をするにあたって必要な要素が確保できないという恐れが、自分を守るために「ちゃんとしないといけない」と言い聞かせ、突き動かしていたんだろう。

でも、それが必要ない時がたくさんあることも、今の私ならわかる。

ただ好きなことを何も考えずにやればいいじゃない

ブログも書く手が止まっていた。
「誰かの役に立つ記事」が書けなくて、「自分の書きたい、書きなぐりたいことは書いてはいけない」ような気がして。

でも、ここは私が好き放題やっていい場所だった。
「別にAdsenseは貼らなくてもいいんじゃない…?」そう言ってくれたパートナーの意図が今頃わかったような気がする。

デザインだって、今の自分ができることが「ベスト」であって、それ以上はない。
Twitterで人気を集めるデザイナーさんのようにはまだにはなれていないし、ラフスケッチが本に載せられるようなデザイナーさんのようにもなれるのかどうかもわからないけれど、だからといってそれが「自分はダメ」だという理由にはならないし、そんな比較はそもそもしたところで何も生まない。

今日、Facebookのコメントでイラストレーターとして活動されている廣世悟さんから、こんなコメントをいただいた。

「ちょっと傲慢なくらいがちょうどいい。例えば、怯みそうになったら、「他のデザイナーが優れているわけじゃない。他のデザイナーが優れていると思いこんでる、自分のココロがあるだけ」と考える。」

ものすごく大きなパワー、勇気をいただいて心が震えて涙が出た。

今の私にとって本当にありがたいコメントで、私のために時間を割いてもらえる、いいねをしてもらえる、そんな方が自分にはいる。
独りよがりでいること、それもある意味「自惚れてる」のかもしれない。もっと意識を外側に向けていたいとも思った。

…もっと自分勝手に、私は、好きなことをやっていこう。
その方が結果的におおきなマルになって返ってくる、それが今は信じられる気がする。