私の「他人優先」スタンスに一石どころか(良い意味で)大量の石を投じた何気ない言葉。

昨日の出来事。
彼と一緒に買い物をした帰り道。

自分の部屋がある階でエレベーターを降りようとして、私は「開」のボタンを押して、彼が先に降りるのを待った。
彼が降りないので「どうぞ」と言うと、おうむ返しで「どうぞ」と言われる。

彼が先に出てくれなさそうなことがなんとなくわかったので、私が先に降りる。

そしてそのままドアの前に着き、部屋の鍵を開ける。なんとなく感じるものがありながらもドアノブを回し、ドアを開けて「ん」と彼を見る。

彼は部屋に入ろうとせず「どうぞ」と示される。
……「また」私が先。

エレベーター同様、私が先に部屋に入ったところで彼が私に言った。

「もっと自分勝手に生きればいいのに」

「(そうやって他人優先に行動している姿が逆に)もどかしいと感じる」

グサグサ刺さる。
私の心に、たくさんの石の破片が。

--そう言われても……。
--私はついやってしまうんだよね……。

そう、反射的に思ってしまうのだけど、本来の私はもっと我が儘で自分勝手だという認識も自分のどこか奥深くで自覚してもいる。

私の中ではどうしても「幼稚園児の頃の私が最強だ」というイメージがある。

先月中旬に参加した、岡部明美さん(明美ちゃん)主催の秩父ワークショップ。
セッション中に「何か憧れるキャラクターとか人とかいる?」と聞かれた私は同じような発言をしていたから、やはりそこはブレないのだろうと思う。

本来の自分を象徴するようなキャラクターは全然思い浮かばなかった。
(確かにドラゴンボールの孫悟空のようにスーパーサイヤ人になったり舞空術が使えればそれに越したことはないけれど、この時の質問はそういう意味ではなかった。)
その代わりに浮かぶのは、感情を全開にして、やりたい放題やっている過去の自分だった。

あれもこれもそれも欲しい。そう言えば、誕生日プレゼントにその全てが揃うような。
〇〇ちゃんの家に遊びに行きたい!と思ったら、幼稚園帰りにそのままお邪魔するような。

(私の母は友達の親御さんよりもずっと年齢が上で、そんな状況はお構いなしに家に私がどんどんお邪魔することが母にとってもしかしたら負担だったのかもしれないとも今ふと思った。)

私はそこに相当戻りたがっているらしい。
思い立ったようなタイミングで水面にポコ…ポコ……と空気が上がってくように、顕在意識に気づかせてくれる感覚はある。

でも、普段はそれをかなりの力で抑えつけて、しかもその抑えつけているという事すらにも気づかないようにして、それを「当たり前」の状態にすべく無意識下に落とし込んで、「気がついたら”他人優先”をやっている」のだと思う。

私としては「”それ”やっていれば、他人は私の事を悪く思うことはないだろう」という前提がある。そして、今までそうやって生きてきた。

……生きてきたのに。

私のとても好きで大切な人は、私の”それ”を「もどかしい」とすら言った。

そう言った彼は、私のような生き方ではなくて、もっと自分に”素直”だ。(これは一つ前の記事に色々書いた。)
だからこそ、遠慮ない彼の本音を、言葉という媒体を通じて私に届けてくれたのだろうと思う。

その言葉が、ありがたかった。ありがたい分だけ、言葉ではなく鋭さをもつ石としてグサグサと刺さった。そして重かった。

私がこれからもっと自分らしく、あの頃の私のように生きていくためには、彼の持つような”素直”さと、先日書いた”自由”をもっともっと取り戻していくことが必要なのだと、また今日も思い知らされている。

なぜ、”それ”を私が手放すことができないのか。それを直視する時期に来ているのだと思った。